本誓寺の法宝物
香部屋

幽霊の図

作者は石田友汀筆・『幽霊の図』

三方正面の図と言われるもので、何処から見てもこちらを見ているように描かれている。
作者・友汀は、狩野派の画家で京都出身。
宝暦6年(1756)生まれの人で文化12年(1815)60才で没す。

友汀は円山派の祖師・円山応挙の師として有名な石田幽汀の子にあたる。
名は敬明と称し画法は父より受け人物と花を多く残し、後に法橋に
叙せられた。(法橋=武家時代、医師、画工、連歌師に与えられた称号)
しばしば、宮中より命を奉じて絵を献上したと言われている。

幽霊の図

幽霊とは『成仏できない死者の霊が生前の姿で、この世に出現する現象』と言われています。
古今東西、その幽霊にまつわる、ドラマやそれを題材とした絵画は枚挙にいとまがない。
しかし、それらに登場する幽霊の姿をよく観察すると、いくつかの特徴に気付かされる。
1つは、大概の幽霊には足がないと言うことです。つまりこれは足が地に付かないことを表しているのではないか?となれば、我われの周囲にはなんと多くの有象無象の幽霊がウヨウヨしていることであろうか。 いや、周囲ばかりではない。自分自身の足元はどうであろうか?
順境の時は厚かましく自分の知恵才覚で世渡りしているように思い、いささか自分の思い通りに行かない時は一切の責任を他に転嫁し、思いがけない災難や不幸に遭遇すると、先祖の霊の祟りだと思い供養に努めるのだが、ただの自己保身というものでは無いだろうか。我らの命の内実は他力の掌中にあって、未来永劫ナムアミダブツに尽す命でもある。清沢先生の仰せのごとく『あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとする』日々は免れない。
実は我々のそのような有様こそ、幽霊そのものなのではないだろうか。
いまひとつの特徴は、幽霊のその目に象徴される怨念(執着、恨みの無限性)の深さである。
この一幅は、虫干法会などを通じて『本誓寺の幽霊』として広く知られるようになりました。
どんな人も、この幽霊の図の前へくると自然に足が止まるといいます。あるとき一人の老婆がこの絵を見つめながら、説明の同行に『この幽霊は若い幽霊やね』と。
その奇妙な言葉に同行は『ばあちゃん、なんでこの幽霊が若いと解るがいね?』と訊ねた。
老婆は『この目をみりゃわかる、ウラんとこの嫁が幽霊の目と同じ目をしてウラを睨んどる』と答えたそうである。いつの時代でも嫁姑の問題はあるが幽霊の図の前で嫁を思い出した、この老婆の日頃の切実さ、またその素直ないただき方におどろかされました。 それから2、3日たって、別の老婆が『ウラもこんな恐ろしい目をして若いもんを見とったのでなかろうか?』とひとりごと。
この老婆は幽霊の目を見て、そこに自分が若いものを見ている、己の目を感じたのであろう。この二人の老婆の受け止めた世界は少なくとも幽霊に対する一般的な通念を見事に打ち破っているのではないでしょうか。
ところで、あなたはこの幽霊の前に立ったとき何を見、何を感ずるでありましょうか?

新客殿

親鸞聖人真蹟(三十三願)文

親鸞聖人真蹟(三十三願)文

絹本著色  聖徳太子絵伝   五幅願、17願、18願、19願、20願、22願、33願、の9願を書写されたことが伝えられています。現在、このうち徳島県の常円寺所蔵の17願、京都市・平塚氏所蔵の18願、そして、本誓寺に蔵するこの『三十三願』文などの66願が知られています。これらは、もと和讃や経文などと共に一部の真蹟集として下間氏に伝えられてあったものが、早くに散逸したものと言われています。親鸞聖人は『教行信証の真の巻』で真の仏弟子という言葉を明らかにされますが、そのことを『大無量寿経』の『33願』文をあげて証明しておられます。
この願いは「触光柔軟の願」(「設(たと)い我、仏を得んに、十万無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りその身に触れん者、身心柔軟にして人天に超過せん。 若し爾(しか)らずは正覚を取らじ」)と名づけられています。「真の佛弟子」つまり、本当の宗教生活者とは、身心柔軟なることであると明らかにされています。
「我が光明を蒙りて、その身に触れん者、身心柔軟にして・・・」とあります。
その身とは、「我が身は現に罪悪生死の凡夫」とあるごとく、人間の実在を現す言葉であり、身は如来の光明に照触せられた時、自ずから名告(の)りを上げるものであります。
金子先生は「”その身に触れん者”ということは、我々の身に感ぜられていくということであり、柔軟というのは、感じる全肉体の感情である。
それは、光がその身に触れたとき、自然に現れるものである」と説かれていらっしゃいます。

太子様の間

第五幅目の大谷廟堂の図

第五幅目の大谷廟堂の図

絹本著色  聖徳太子絵伝   五幅
掛け幅絵伝で密質の絹地を使い、五幅一具となっているが、第一幅と二幅目の間に欠落が認められるところから、推定するに、もとは、十幅一具のものであったものと思われる。
内容的には真宗教団との関係について、次のように認められる。
真宗教団との強い関連性をもつ資料として高く評価されている。第三幅、第四幅の所蔵、六角堂の縁起、太子諸方巡遊のこと、芹摘姫との結婚などに、説話的な要素が含まれていること。第五幅の上部には、善光寺如来縁起、下部には親鸞聖人の六角堂における救世観音の夢告、また法然上人より選擇集を伝授される場面の表示、そして他に類例のない、大谷廟堂の場面が加えられていることを、挙げることが出来る。これらの図相は、室町期に真宗教団の立場から、新しく事跡を加えて描かれたものといえよう。
(昭和45年7月22日・白山市文化財に指定)

新客殿

大般若経

大般若経

現存する我が国最古の写経は、天武14年(686)に書かれた金剛陀羅尼経と言われる。
長屋王の願経になるこの大般若波羅蜜多経は、これに次ぐ古写経とされている。
写経は仏教弘通にあたって、口誦による不正確を避ける為に発生したものと伝えられるがその宗教行為は、父母、師僧、愛児や天皇に捧げることを目的にしていたとされる。
この願経は、長屋王が慶雲4年(707)に崩御された文武天皇のご冥福を祈って和銅5年(717)に写経されたものである。
長屋王は天武天皇の子、高市皇子の長男として生まれ、左大臣、右大臣などにもなったが元明天皇と藤原不比等の死後開始された政権争奪劇の犠牲となって、神亀6年(729)2月1日、正妻の吉備内親王やその子と共に自刃した。
本帖は、もと巻本であったが、折り本に改められており、滋賀県土山町大平寺、同栄明寺に所蔵されているものの零本である。
*零本=巻数の欠けた書物
(昭和25年8月29日・国重要文化財に指定)

新客殿

百万塔陀羅尼

百万塔陀羅尼

天平宝宇8年(764)、*1恵美押勝の乱が平定されたとき称徳天皇が追福修繕のために、内部に*2無垢浄光陀羅尼を納めた百万の三重の小塔をつくり、大和の十大寺に分置された。
*1 恵美押勝は藤原仲麻呂のことで奈良後期の高官で武智麻呂の子。光明皇后の信任を得て従妹の幸謙天皇即位後、政権を握った。757年淳仁天皇を立て、橘奈良麻呂の反乱計画を押さえ、恵美押勝の名を受けた。764年、道教を省くため反乱を起こしたが破れ、近江で切られた。これを恵美押勝の乱という。
*2梵語による呪言、これを踊すれば傷害を除き大利があるという。

この百万塔は木像製で高さ約23センチメートル、770年に完成して各寺へ分配された。
塔内に納まる陀羅尼は縦約5センチメートル、横17.5センチメートルの紙に印刷されており、印刷方法は不明であるが年代の明確な印刷物としては日本最古とされる。
国内では法隆寺に伝わる102基が国指定重要文化財に指定されているもので、当本誓寺に蔵している1基は明治32年に松本白華が法隆寺より譲り受けたものである。当時における日本仏教の姿を、象徴したものといえよう。
突然起こった「恵美押勝の乱」に対する為政者達の恐怖心が、かかる百万塔造立を生み出したものであろうと推察できる。
(平成5年3月30日、白山市文化財に指定)

広間

五百羅漢図(2幅)

五百羅漢図(2幅)

この図は、中国は明の画家である丁雲鵬と盛茂樺(セイ・バイカ)の合作であると言われています。万暦22年(1594年)に描かれたものと言われて居ります。中国では同類の作品が国宝指定されていると伝えらており、大変貴重な国宝級の法宝物です。
(由 来)
清朝中期(19世紀)の大収蔵家である畢曨が所蔵して居りましたが、後に日本に招聘されまして、京都御室御所(オムロゴショ)仁和寺(ニンナジ)に24幅奉納されました。京都国立博物館には現在、8幅が収蔵されており、内3幅は大阪の個人所蔵(2人)の保管品です。
2005年に大阪大学より調査にきて落款等を鑑定した結果、本誓寺所蔵のこの2幅も京都国立博物館の5百羅漢図と作者が同一であり貴重なお宝と認定され、全24幅の内10幅の所在が明らかとなりました。
(五百羅漢とは)
五百羅漢とは、仏道を修行して迷いの世界を脱し、煩悩を断ち切り、人々の供養を受けるにふさわしい境地(阿羅漢果)を得た、500人の羅漢のことで、多くは禅寺の修行の究極の姿として崇められています。季節は夏季(7.8月)とされ厳しい托鉢修行を終えて、爽やかな山麓で談笑する姿が描かれています。(全24幅に500人の人物が描かれて居り、同じ顔は存在しないと言われています。)
(図中の背景から)
この図は最初に風景が描かれ人物を書き込む箇所を空白で残して、人物は後で描き込まれています。図中の針葉樹は、松ではなく「広葉杉(コウヨウザン)」と言われています。原産地は中国南部、インドシナ、台湾に分布しており日本には江戸後期に渡ってきたとされています。近隣では向島の前田八幡神社に4本、四ツ屋に1本あるそうです。背景の山岳と広葉杉からヒマラヤ地域の山麓と思われます。
前松任市 文化財専門委員長 故蒔田達雄先生(当本誓寺門徒)より口伝

広間

本誓寺開基・円政木像

本誓寺開基・円政木像

開基・円政御坊の木像は、いつ頃だれの手によって、刻まれたかは定かではないがその表情はやさしく、深い悲しみを込めて、悠久の乱世を凝視しつづけて居られます。
(本誓寺の由来)
本誓寺の歴史は白山を開かれた泰澄大師が養老3年(719年)に歓喜心院無量寺(天台宗)としてこの地に建立された頃までさかのぼる。
この無量寺が現在の本誓寺と改められ、北陸の地で浄土真宗最初の寺院として発祥したのは、承元の法難(1207年)で親鸞聖人が越後配流の途次(トジ=途中)、この地を通られたことに起因する。
当時、無量寺の主僧であった円政は数年前までは京都で慈鎮和尚のもとで修行中であったが富樫介の招請に応えて無量寺の主僧として入山したのである。円政は当時、山上仏教であった天台宗派に属する僧であったが、法然上人の影響も受け、かの吉水教団で親鸞聖人と共に学んだ同士とも言われている。
(天台宗から浄土真宗へ)
承元の法難により親鸞聖人は越後の国に流罪となられるが、その頃既に無量寺の主僧として入寺していた円政は、松任・倉部川に親鸞聖人を迎え3日3晩の留錫(リュウシャク=逗留)を求められた。念仏停止の断が下ったのは承元元年2月18日であり、この地を通られたのは恐らく3月上旬と推察される。時あたかも倉部川は雪解け増水で舟渡しが困難となり、親鸞聖人も久しく会っていない円政に会いたく思われたことであろう。早速よろこんで円政の求めに応じられた その3日間円政との間に真宗の宗風について火を吐くような論議が交わされ深い心の交流があったと思われる。これより坂本山・本誓寺と親鸞聖人によって改められ、北陸における浄土真宗初の道場となったのである。別れに際し、倉部川の渡しまでお見送りした円政御坊に対し聖人は”法の道、まわらば遠し倉部川、弥陀は松任近し渡し舟”と詠ぜられると、円政はそぞろ随喜の涙にむせばれて”法の道 弥陀の御身のかよう世に 何を倉部の徒渡り(カチワタリ)せむ”と詠じ、綱をとかれ師弟の誓いを約束され、また親鸞聖人は円政の厚いもてなしと励ましに感謝しながら越後国府へと旅立たれたのである。円政御坊はそれより称名のほか他事なく、親鸞聖人との文通を頻繁に行って、いよいよ内に念仏の信心深く自行化他(ジコウカタ)せられたのである。
自らが進んで教えを広められたの意
(北陸初の浄土真宗寺 円政御坊の生涯)
円政御坊は弘長2年10月28日、親鸞聖人の御往生に先立つこと僅か3旬に88歳の高齢にて
遷化(センゲ=高僧が亡くなる)せられたと伝えられている。

広間

足利義氏書状・顕如上人書状

左から『足利義氏より本誓寺宛の書状』が昭和45年に白山市の
『指定有形文化財』に指定され、昭和50年『顕如上人より加賀四群衆宛の書状』が
白山市特定有形文化財に指定されました。
何れも戦乱の世を生抜く為の連携と背景を伺わせる貴重な資料である。

足利義氏書状・顕如上人書状

 『足利義氏 書状』
わざわざ使節として勝願寺をつかわされ候
そもそも長尾禅正少卿、去る申のとし 越山いたし以来
関東千才止むことなく候、しかりといえども北条氏康父子
防戦堅固ゆえ、なかばを過ぎ静謐せしめ候。
然れば、当秋かさねて越山致すべき段きこしめさるるに
及び候。
このみぎり越国騒乱儀、戒行馳走たのもしく思し召し候。
景虎の計策にのらず忠節の儀はげまさせるべく。
関東由緒なきところに候か。
このたびの謀略肝要に候。
安養寺、瑞泉寺と、よくよく談合あるべく候。 いたって、
御本意は門徒興隆の儀、御下知くわえさせられるべく
尚、勝願寺舌頭あおがせられ含み候。
よって、御腰物 兼元作、これをつかわさせれ候。
謹言
義氏 (花押)
八月三日 本誓寺

広間

弥市の豆殻太鼓

弥市の豆殻太鼓

〔第一話〕(弁当の草毟り)
弥市という人は、いつ頃の人かは定かではないが、本誓寺の寺男として生涯仕えた人らしい。すこぶる正直で直情的な性格だったらしくその人柄を表すいろいろな逸話が伝えられている。
昔、本誓寺はかなりの田畑を所有して居り、弥市はその栽培管理を一切任されていたと云う。

ある日、その広い畑の草取りを済ませた弥市が、その出来栄えを住職に見てほしくて、畑まで住職を連れて行きました。 なるほど広い範囲に亘って草は毟られていました。住職はからかい半分に『こりゃ弥市が毟ったがでないやろ、弥市の弁当がむしったがやろ、なんせお前はよう食うさかいなー』とからかいました。すっかり腹をたてた弥市は『そんなら明日、まだまだ毟るさけ弁当つくってくれ!』と言って脹れたそうな。
さてあくる日、弥市は畑の桑の木にその弁当を結びつけて遊びに行き日暮れになって帰って来たそうな。それを知った住職は『弥市お前、体でも悪いのか弁当も食べんとどうしたんや』と言うと、弥市は『権現さんが昨日、弥市が毟ったんでないやろ、弁当が毟ったがやと言うましたさかい、弁当が仕事するかどうか、この木に絡げて置いたがや』と言ったそうです。
〔第二話〕(一粒万倍)
ある日住職が『弥市や、今日は天気も良いし畑行って豆ひとつ植えて来いや』と命じたところ正直者の弥市は大きな畑の真ん中に豆一つだけ植え、その一粒の豆の為に草を毟り肥やしをやり精魂を込めてて育てたそうです。やがてその豆の木から一石八斗の豆が採れたそうです。
また、その豆の木を切り倒して作ったのがこの『弥市の豆殻太鼓』であると伝えられています。
〔第三話〕(約束)
又、ご飯を炊くのも弥市の仕事であったが、毎日『今日は何升炊くのや』と来客中であっても大きな声で聞きにくるので、閉口していました。住職はお客が居る時は恥ずかしいのでだまって手を出し指一本の時は一升二本出せば2升炊くことにしょうと約束をしたそうです。
ある日うっかり地下の室に落ちた住職が『弥市!弥市!と呼びながら、両手を挙げて弥市を呼びました。 弥市はその日の米を1斗炊いた為、冷やご飯が数日間続いたそうです。

この逸話は福正寺の福田与盛さん、番匠の作田与作さんからのお話です。

御簾の間

光明本尊

光明本尊

光明本尊とは真宗初期の教団における原始的な本尊で南無不可思議光如来の九字名号、帰命十方無碍光如来の十字名号、南無阿弥陀仏の六字名号を中心に、釈迦の十字名号、南無阿弥陀仏の六字名号を中心に、釈迦二尊、三国(インド、中国、日本)に亘る浄土教の祖師先徳の像を描いて、それらの諸祖が弥陀の光明の中に宿り給う相をあらわし、あわせて師資相承(宗旨の奥義を師匠より弟子に相伝え、次の弟子がそれを受継ぎ絶えぬこと)つまり、一宗の歴史的伝統を示した一幅の画像である。
この画像は鎌倉中期から室町初期にかけて、関東、中国地方に広く用いらていたもので、蓮如上人の教えでは『他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。当流には、木像より絵像、絵像よりは名号というなり』とのご教化が広がるに至った。本誓寺に蔵する光明本尊は室町初期のものと推定される。中央の南無不可思議光如来の九字名号より光明を放ち、その右に源空上人、誓覚、性信、親鸞、顕智、真仏、是信、源信、聖徳太子、蘇我馬子の坐像が描かれ、左に三菩薩七師が描かれている。左側の像の名前が剥落しているが光明本尊の形式によると少康法師、善導大師、曇鸞大師、天神菩薩、法照禅師、大勢至菩薩、懐感禅師、道悼禅師、菩提流支、龍樹菩薩、下部に釈迦弥陀二尊の立像を書き、釈迦像の右に帰命尽十方無碍光如来、弥陀像の左に南無阿弥陀仏と書かれている。この光明本尊が、いつどのような経路で本誓寺に伝えられたかは定かでない。

御簾の間

涅槃絵図

涅槃絵図

涅槃とは寂滅、滅度などと訳し、全ての煩悩の束縛より解放され迷いの生死を断ち切った悟りの世界を言い、仏教が究極の目的とするところである。
小乗仏教では、身体も意識も滅した消極的なものと解くが、大乗仏教では積極的に、四徳を備えた世界と解く。
つまり①常(永遠に変わらない)、②楽(苦が無く安らか)③我(自由自在で他に苦が無い)④浄(煩悩の汚れ無し)のこと。
その意味から転じて釈迦の死(入涅槃)を意味する言葉として使われる。
涅槃図はガンダーラ美術以来、仏伝図の一主題として描かれた。
釈尊が沙羅双樹の下で涅槃に入ろうとする時、人間のみならず一切の生物が集まって来て、その死を嘆き悲しむ様子と、マヤ夫人が天界から降下する姿が、涅槃図の構図である。
本誓寺に伝わる涅槃絵図は、京都東福寺の典座(禅家等で衆僧の座席、寝具、飲食などの配分を司る僧)である 兆 殿司の筆と伝えられている。
兆 殿司という人は、中国より渡来し一生東福寺の典座の職にありながら、広く仏像を描き、衆生を化易せられたと伝えられている。 後に、東福寺の住職にまでなられた人物である。
正面の臥しておられる金色のお姿が大誓釈迦牟尼世尊である。頭北面西右脇に臥し給い、周囲に見える木が沙羅双樹である。
釈尊の周りにお弟子や人々が取りまき、更に外周に鳥類、畜類が集まっている。非常に精緻で格調の高い涅槃図であり、釈迦の入滅に対する哀しみと嘆きの深さが、それぞれの姿態や表情によく表されている涅槃図である。

蓮如様の間

蓮如上人御讃御寿像

蓮如上人御讃御寿像

蓮如上人と本誓寺のかかわりは、本誓寺第9代・憲誓法師の時であります。
寛正6年(1465)延暦寺の宗徒が、蓮如上人のおられる東山の大谷の坊舎を襲うという事件がありました。 上人は難を避け近江坂本から堅田へと逃げられました。その後応仁元年(1467)より細川・山名を堂主としての応仁の乱が起き、京洛の巷は戦火に焼かれ寺院や民家の消失数知れず、悲惨な状態になったので蓮如上人は再度、難を逃れられました。その折、憲誓法師は上人を助け地方に隋行、文明3年(1471)越前吉崎に坊舎を建立するに当り、上人の手足となって積極的に働かれました。
特に本願寺と専修寺の門徒が争ったときは上人に従って加賀に入り本誓寺に宿泊を願い朝倉、富樫氏の人々に勧め、蓮如上人を崇敬し入門させたと言われています。又、第10代聞誓法師は先代憲誓法師と同じく深く蓮如上人に帰依し上人が山科に隠棲されてからはしばしば山科の地を訪ねられ、教化を蒙ったと云われています。
この蓮如上人の御寿像は、その聞誓法師が蓮如上人から授与されたもので、上人の御自讃文の入った珍しい御寿像であります。
左に明応元年満80歳とあるのは、明応元年は上人78歳(1492)の時であり、もう間も無く、80歳に満るという意味だと言われています。
御寿像の右側の一文は、『古、東山の霊地にあって一流の宗儀を立つると云えども今、山科の林窓にトして、安養の往生を遂げんと欲す。弥勒慈尊の暁に同じて、畢生末期(ひっせいまつご)の夕べを待つ』と書かれています。晩年、山科の地にあっての静かなご心境が伺われます。また御寿像の左側には、下記の2首の和歌が書かれています。

* 仏にも祖師にも よはい同じくて
いくる八十路のかずぞ尊き
* 極楽へ我いくなりと聞くならば
いそぎで弥陀を頼め皆人

吉崎建立の後明応5年(1496)に蓮如上人が石山本願寺を創建されたと言われています。

蓮如様の間

正信念仏偈及び三帖和讃

正信念仏偈及び三帖和讃

蓮如上人が吉崎に居を定められたのは文明3年(1471)から文明7年(1475)までの5年間であります。この間、吉崎における上人の宗教活動は目覚しく、ここを中心として随時、加賀、越前の各地へ足を運ばれました。 その中で特に注意したいのは、予てより用いられた『御文』による伝道を一層強力に押し進めたことと、『正信偈と和讃』を、仏前の勤行読誦用として依用され、 その為に『正信偈』と『三帖和讃』を改版せられたことです。それまでは仏前に於いて7高僧の第5祖・善導大師の『六字礼讃』を用いられていました。併し蓮如上人は、同じ読誦するなら宗祖親鸞聖人の述作にかかる御聖教に越したことは無いということで、その撰述である『教行信証』の要である『正信偈』と『三帖和讃』を朝夕の勤行式として定められ、これを普及するために、文明5年(1473)3月に開板されました。それによって人々は日々の生活の中に親しく親鸞聖人の心を味わい、佛恩を喜ぶ機会を持つことが出来るようになりました。
この開板は真宗のお聖教の印刷刊行では最初のことであり、且つ又、古版本には珍しい片仮名まじりの刊本として、日本の印刷史上、不朽の地歩を占める一面の業績であります。
紙本木版で各帖の綴りは、『浄土和讃』68枚、『高僧和讃』68枚、『正像末和讃』69枚、『正信念仏偈』16枚、共に縦18.2センチメートル、横10.4センチメートルのもので紺地に金襴の唐草模様が描かれています。印刷部数は如何ほどかは不明ですが、現存するものは5、6部に過ぎず資料としても貴重なものであります。
尚、最後の頁には次の刊記が添えられてあります。

右斯三帖和讃並正信偈
四帖一部者末代為興際
板木開之而巳
文明五年癸巳三月(蓮如花押)

この刊記の4行は蓮如の筆跡と見られております。

永亨版『選択本願念沸集』

永亨版『選択本願念沸集』

選択本願念佛集(略して『選択集』)は、法然上人が著した浄土宗の根本聖典であり、最初に上梓されたのは延応元年で、これを延応版という(京都市法然院蔵)。
つぎに、建長三年七月に上梓された建長版があり(京都市西本願寺蔵)、さらに正申二年十月の正申版がある(京都市久原文庫蔵)。
当永享版は、永享十一年に上梓されたもので延応版の覆刻である。
現在、大津市伊香立下在地町の新知恩院に、一本が蔵されているのみで、本誓寺蔵本は、まさしく貴重な稀親本といってよい。
さらにこの永享版の特色はそれに付された訓点がまさしく蓮如の!二十三子実悟の筆になるものであることは否定できない。法然に対する蓮如の信仰は絶大であって、蓮如は、その真底(子ども)の多くを華聞院(浄土宗の学問所)はじめ、浄土宗の諸寺院へ送り研修させた。すなわち、その心底にまず『選択本願念佛集』を勉強させた。本誓寺蔵のこの実悟訓点本は、そのことを実証するものとして貴重で資料的な意味をもっている。

絹本著色 旅装聖徳太子像

絹本著色 旅装聖徳太子像

この像は、履物をはき、右手に錫杖、左手に数珠をもち、大木の根元に腰掛けた豊麗な顔の太子像が描かれている。錫杖と履物は旅装を表し、聖徳太子が十四歳または十六歳のとき、用明天皇の病気治癒を祈って巡錫した姿と考えられる。
聖徳太子の神格化はかなり早くから進んでいて『日本書紀』の記載からも知られ、平安時代中期の『聖徳太子伝暦』によって本格化する。書かれた絵師も年代もはっきりしないが、伝承によれば、巨勢派五代目(日本で一番古い画流、初代・巨勢金岡)巨勢弘高の筆になるものといわれる。巨勢弘高は巨勢派の中興の絵師といわれる人で、『今昔物語』の中にも「一乗院の御代の絵師・巨勢弘高というものあり。古にも恥じず、今も比ぶるものなし」とある。一乗院は寛弘寛政年間の天皇であり、寛弘元年(一〇〇四)から寛弘八年(一〇一一)とすれば、今から九〇〇年前の作品と推察される。
(昭和55年12月11日・白山市文化財に指定)

元亨釈書(跋文)

元亨釈書(跋文)

『元亨釈書』とは、鎌倉時代に作られた仏教史書であり、日本に仏教が伝来した六世紀後半頃から十四世紀後半頃までの約七百年にわたる、わが国初の仏教通史である。完成したのは、元亨二年(一三二二)といわれ、鎌倉時代後期の禅僧、虎関師練の編著になるものである。ここの作品が成立する事情については、次のような興味深いエピソードがある。
徳治二年(一三〇七)、作者が鎌倉に下り、元の国から来朝した一山国師に指示して修業していた頃、老師から、本廟の高僧の事蹟について質問されたことがあった。ところが、作者(虎関)は満足に答えることができなかったという。すると、国師は「公の博弁、異域(インド・中国)のことに渉は、章々として悦ぶべきも、本邦のことに至りてはかかる酬対(応答)に苦しむ。なんぞや」といったという。その言葉に発奮した虎関師練が、その後、国史や雑記を博覧して、元事二年に完成したのが本書である。
一般にはあまり知られていないが、各僧侶の伝記には、数多くの説話が引用され、これまで名前しか知らなかった名僧、あるいは名前さえも知らなかった高僧が登場する。
宗性の『日本高僧伝要文抄』が僧伝資料を集めたものであるのに対し、これは、日本最初の僧伝として重要なものである。
本誓寺に蔵する『元亨釈書』の跋文は、永和四年(一三七四)、雲州安国寺の僧・通玄の書いたものであり、本書はもと、京都東福寺山内の海蔵院に蔵されていたものといわれるが、その後、散失。明治五年の二月、松任・水島の粟津文石という老人が、金沢城内の骨童店で発見し、明治二十八年四月、文石老人の遺命によって白華の手に帰したものである。実に五百年間、所在が不明だった本書は、こうして本誓寺に伝えられることになったわけである。

五事毘婆沙論 第一

五事毘婆沙論 第一

『為五事毘婆沙論』は印度の僧法球の造。唐の玄共が注釈したもので、天平十二年(七四〇)五月一日、光明皇后が亡父藤原不比等及び亡き母橘夫人のために書写せしめた一切経(大蔵経)の中の一巻で、光明皇后御願経の中、一般に『五月一日経』の名で呼ばれている。
天平十二年は皇后四十歳の時であり、母橘夫人の七回忌にあたる。跋文(奥書)には父の不比等、母橘夫人のために発願したもので併せて聖武天皇の福寿を祈願され、また光明皇后自らは衆生の沈愉を救うて法燈を無給に伝えようと、その信仰の篤さを述べている。
その体裁および書体とも正倉院聖語戯に七百三十五巻、その他諸家に一巻または断簡となって多く遺っている。いわゆる『光明皇后御願経・五月一日経』と同一のものであり、筆跡は当代の代表作らしく傑出しており、書風には唐代と隋式が混合されており、本文の書き手と願文(跋文)とは一手のものである。
現在、京都国立博物館等に蔵されている『光明皇后御願経・五月一日経』の多くは重要文化財または重要美術品に指定されている。
本誓寺に蔵されている『五事毘婆沙論第一』は本誓寺第二十六世住職松本白華が、、明治二十九年五月在京中、喜多院において懇請入手されたもので、五事毘婆沙論二巻のうちの一巻で、前半部が欠けているものの(約三十七%)、天平十二年五月一日付けの著名な跋文に至るまで、ほぼ完全な形で残されており、『光明皇后御願経』として極めて貴重なものである。